いろはに金平糖ちりぬるを

読んだ本・見た映画の備忘録

『面白いほどわかる!クラシック入門』

『面白いほどわかる!クラシック入門』松本大輔

音楽の入門書は聞きたくなってナンボ、という基準を仮に設けるならこれはかなり優秀なガイドブック。

クラシック音楽を聞いてみたいけど何から聞いたらいいかわからん…という未来永劫クラシック興味持ち始め人間が行き当たる悩みに「とりあえず交響曲を聞いてみましょう!!クラシックのど真ん中は交響曲交響曲を聞けばクラシックの歴史も辿れるし、その他の部分もわかってきてクラシックのことがわかる!」とでっかい声で答えてくれる。とりあえずはその方針にのっかる形で読み始めると、そのうちに、遠くに霞んで見える山に登りたいけど登山の仕方がわからない…という状態だったのが、ドーナツ屋で今日はどれを食べてみようかなと悩む程度になる。そういう本。

なんといっても著者はクラシックを聞こうと思い立った初っ端で挫折しているし、その時にも一応50回は「運命」を聞いてそれでもわからなかったという。その後にB面の「未完成」を聞いた時にも常に部屋に流れてるくらいかけ続けた結果なんとなく「わかる」ようになり、その後も難解な曲に当たるたびにとにかく繰り返してみて、ダメなら置いてみて他の聞きやすいものを聞いて、また戻ってみたらなんだか「わかる」ようになって…というのを繰り返したらしい。かなり忍耐強いというか、挫折した後にこんなに粘ってもいいんだという不思議な勇気が湧いてくる話である。

そもそも兄弟で「なんか大人っぽい音楽を聴きたいから」とお小遣いを出しあって、お金を握りしめてレコード屋に向かうという『てぶくろをかいに』的な冒頭のエピソードがかわいらしすぎる。初めて買ったベートーベン交響曲第5番「運命」で見事に挫折してしまった時の、買った時の喜びと期待あふれる感じから最初に挫折するところまでのエピソードは本当に微笑ましい。当時の本人たちは大ショックだったと思うが…。

兄弟でこの曲はこうやったら楽しく聴けるんじゃないか!?とか、この曲は「わかる」んじゃないか!?いい感じじゃないか!?と試行錯誤して、たまに「おい……」となりながらもいろんなものを聞いてどんどん進んでいき、そのうちに昔わからなかったものがなんでかわかるようになったりする、というのはクラシックに限らずこんな風に何かを好きになって付き合えたらな、と憧れる話でもある。

本全体のつくりは三章仕立てで、第一章が著者の体験談をベースにした一人称の鑑賞記、第二章は長い時間のスパンで見た歴史の概括、そして第三章では 交響曲の勢いがなくなりつつあった時代に書かれた交響曲について。第三章にはマーラーとかブルックナーなんかが出てきて、交響曲衰退期の作品であっても作品自体の質が落ちたわけではなく、むしろ素晴らしい作品は本当に素晴らしいんだ!!!というのがビシビシ伝わってきて私はこの章が一番好き。ほとばしるエネルギーというか、けっこう好き勝手と言っちゃ失礼だけどこの人はこの曲を聴いて心からそう思ったんだなというのが伝わってくるし、そういう文章が結局読んでて面白いんだよね。ブルックナーについては本当に意味わからん気持ちになったのがありありと伝わってくるのが面白すぎて上級者向けと書かれているのに今すぐ聞きたくなってしまった。
合間合間に入ってくる交響曲以外の曲の解説も興味をそそるし、全編「これ聞いてくれや!」という押し付けがましさがなくとにかく楽しそう!と思わせるところに留まっている文章の付かず離れず感が信頼できる。入れ込んでる人の話は当てにならない時がけっこうあるからな〜…と思っている人間にとっては、これくらいそういうところから距離を取っている本が1番助かる。

未知との遭遇

・周りとの会話ができなくなった人間が情熱で突っ走る

・よくわかんない相手とよくわかんないタイミングでキスする

・人間に都合のいい未知の存在

・曲の意味わかんないのに適当にコミュニケーションできるガバさ

苦手な要素が詰まってるなあ…という感じで、当時はどんなふうにウケてたんだろうか。スクリーンで見たら宇宙船がすごかったとかは想像できるんだけど、個人的には話のアラが気になってそこを楽しめなかった。こういう作品見ると毎回「え?何?」ってなっちゃって、私にはSFの受容体が無いんでしょうね!!ってイライラして終わる。ガハハハ!!!!!!まあSFが合わないのかこういう映画のノリが合わないのかはわかりませんが…。怖くてSF小説とか読めないんだよな。PKディックとか読んで発狂しちゃったらどうしよう。前に華氏451度に挑戦して、びっくりするくらい何言ってるかわからず呆然としたまま読み終わっちゃったことを思い出す。

でもゴジラSPは面白かったし、いちいち「説明して!」って思わずスルーできるSF的お約束描写とかも意識してないだけで存在してるかもしれないから、その辺の見極めができれば楽しく読めるものもあるのかもしれない。問題はその見極めをするほどSF作品にあたる気力が無いことだが。こうやって特定のジャンルには近づかないまま終わるんだろうな。

インターネットの部屋

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

鴨長明方丈記』)

というわけでTwitterもずいぶん長らく使ってきたけど、インターネット上の永遠の住処にはなり得ないのかもしれないなあとふと思ったり。こんだけ長く使ってるとこれが無いってどんな感じか想像できなくなってるけども。友達とどんなふうにしてたっけ。多分、誰ともあまり連絡を取らずに半年とか数年経ったりしてる。いつからか人に連絡をするのに多少心理的なハードルを感じるようになっていたので、とりあえず自分の状態を掲示しておける場所としてTwitterはありがたかった。

でも、ぱっぱっと思いついたことを適当に投げ出すようなことばかりしてしまっているなあという後ろめたさはここ数年段々と強まってきていて、どうも考えたり読んだりということの質を自ら下げているのではないかという気持ちがよく湧くようになってきた。落ち着いて物事に当たれない。一度なんだか嫌になってきて、5月ごろには一回アプリを消したりしていた(美味しんぼの田畑さんが結婚した回でびっくりして思わずツイートしたくなって再インストールしてしまったが)。

この、「思わず人に何か言いたくなる」というのが病の根幹に近い気がする。たしかに自分がびっくりしたり楽しんだり、その他のマイナスな感情であっても仲の良い人に話すのは楽しい。しかし「すぐ」それを言う必要はあるか?ということはもうちょっと考えた方がいい気がする。だって、落ち着いてみるとそんなに鮮度が大事な話ってそうそう無いし…。大体の場合は事態を落ち着いて整理してから自分の考えをまとめ直した方が確実に良い形になるし、意識してそれができるように自分を調整する必要があるように思う。

思いのままにわーわー言うのも楽しいけど、そればっかりやってるとそれ以外の形にすることができなくなっちゃうからなあ。

場所(使うサービス)が変わったらその場の仕様に合わせて挙動が変わるから、もしかしたら良い変化ができるかもしれない、しようかなと思っている、という話でした。

日記

気絶していたら前に日記を書いてから1ヶ月以上経ってた。

特に体調を崩したというわけでもなくただ単に何も書かなかっただけなんだけど、この一か月が吹っ飛んだ感覚は気絶というのが一番近い。確実に毎日飯を食ったり風呂でさっぱりしたり、その他何かしているはずだが、記録を取っておかなければ細々したことは何もかも時の波に押し流されてどこかへ行ってしまう。

そもそも、落ち着いて考えてみるとこの1ヶ月に限らず自分の行動を短期長期問わず思い出せないので、常に気絶しているとも言える。強いていうならその時々で読んでいた本や漫画の記憶は比較的はっきりしているが……。起伏のない人生なのでどでかいライフイベントはさすがに記憶にあるが、その合間合間の霞がかかったような時期についてはその時々に読んだ本、漫画やプレイしていたゲームを起点にした方が思い出せる。というか本屋漫画のタイトルしか思い出せないというか。霧深い山道みたいな人生だ。はっきり見えるのは足元だけで、あとは霧の中にたまに木の影(本のタイトル)が見えるだけ。

その本も大体は読んだことを忘れてしまう。忘れたところで何の問題もないが。

問題ないとは思いつつ自分の書いたものや行動の記録を読むのは好きなので、ここ数年はビブリアで記録を残している。バーコードをかざすと本を特定してくれるのが未だに面白くて読み終わると即本を裏返してしまう。バーコードを読むのがなぜこんなに楽しいのかはよくわからないが、子供の頃に漠然と想像してたテクノロジーの雰囲気を感じているのかもしれない。それか今までの人生で気づく機会がなかっただけで、単にバーコードを読むのが異常に好きなのかもしれない。ハードオフでバーコード戦士のおもちゃを見かけると未だにちょっとほしいと思っているし。

しかし何よりビブリアには積極的に他人とつながる機能がないところがとても良い。正確には自分の感想を共有できるし他のアプリと連携もしているけど、自分で選ばない限りどことも繋がることはなく、アプリ側が他人と共有することを前面に押し出さないところに好感が持てる。各種インターネットサービスやアプリは繋がることが前提だったり良いこととして押されがちだけど、こういう自分しかいない島みたいなものも一定の需要はあると思うんだよな。ただ島の住人は無口な人が多そうだからその需要自体が観測されてないだけで…。まあ、なんの根拠もない妄想ではあるが。石油王になったらそういう小さな島みたいなサービスを作ってみたい。しょうもなさすぎて悪用もできないような、些細なやつを。

ここ最近の生活

友達と通話して、久しぶりだね〜というところから近況報告をしようとしたら自分が何をやってたのか一切思い出せなかった。

おそらく基本的に何も起こっていないんだと思う。新しいことを始めたとか、何かにハマってるとか、そういうトピックの立つような何かを生活の中でやっていない。

とはいえ友達と繋がってるTwitterでは年がら年中何かしらツイートしてるんだから日常が完全に静止しているわけでもない。間違いなくやってると言えるのは毎日夕飯時に美味しんぼを一話ずつ見ていること、Twitterで見かけた面白そうな本を片っ端から図書館の蔵書検索で収蔵されてるか確認して片端から借りては半分は実力不足で読めなくて返却していること。自分の庭で食べ物ができたら嬉しいという理由で植えた苗に水をやっていること。しかし野菜の育て方を真剣に調べてはいないので、もう観葉植物だと思って作物の出来には期待しないようにしていること。適切な時期に適切なバランスの肥料をやるとか、水の具合とか、読んでるだけでメゲてくる。とても出来そうにない。どうしてもというなら最初に調べて表にしておかないと無理だろうな。そして、下調べと表作成、計画を作るというのは私が人生でまだ育ててないスキルツリーの方に含まれてるので、できない。

あとは庭に植えたら楽しそうな植物を探して、気に入ったものを見つけてもどこに植えるかを考えられなくて、そのままサイトを閉じたりしている。

こうして書き出すと停滞そのものだ。動いているのがいいとは思わんとはいえ、動きが無さすぎて退屈なのかもしれない。何かやったことのないものとか、やろうとして諦めてたものとか、とにかく今の生活の外部にあるものに触れる時期なのかもしれない。

 

追記

書き終わってから気がついたけど、『ゼルダの伝説 トライフォース三銃士』をやるために友達と3DSを持って集まったのだった。これが一番でかい。あと、シン・ウルトラマンの2回目を見た。

あとは生活に必要な食事などの行動で時間が埋まっているのだと思う。

ページの隙間にいるもの

ぼんやり一日を過ごすうちに、数えきれないほどの小さな泡のようなものが頭の中の川を流れて行く。そのなかのいくつかが時々お互いにくっつきあい、どうかするとスープ状になった過去の記憶から小さな断片を拾い出してくることがある。断片はたまに文字になり、突然本のタイトルのかたちをとる。

そういうふうにして思い出した本は猛烈に読みたい気持ちを誘うもので、とりあえず読みかけの本の山をわきに置いて本棚の前に立つことになる。大体このへんにあったはず、とアタリをつけて探ってみると見当たらない。記憶違いかと思って端から本を手前に傾けて奥の段まで覗いてみても見つからない。家族に貸したかと思って共用の本棚の中身も検分して、聞いてみても知らないと言われる。処分したのかもな、と思う一方でどこかにある気がする、という妙な確信めいたものが生まれてしまっていて諦めきれない。でも家じゅうをもう一度探しなおしてもやっぱり見つからない。

そうやって記憶の中の本を探す一方で、本棚の中身を順番に見ていると前から読もう読もうと思ってそのままにしていた本が見つかるので、もう一度挑戦するか、ちょうどいいタイミングだし、対戦よろしくお願いしますということで何冊か取り出して机の上に置く。

結果として読みかけのままわきに置かれて忘れられることになる本のかたまりと新しく読もうかなと思って積まれたまま忘れられる本のかたまりができ、そういう小さなかたまりが部屋の隅でキノコのようにどんどん育ち、その一方で図書館であれもこれもと借りてきたりする。そのうち見るからに部屋の中が荒れてきて収拾がつかなくなるので片っ端から本棚にしまいなおして、こうして本達は水族館のマグロのように家の中を周遊する。

多分、本はもともとこうやって移動するものなのだろう。もとは一人乃至複数の人間から出てきたものを他者に届けるための乗り物のようなものなのだから、本来はこうしてあちこちを動き回るのが正しいのだ。誰かの頭の中身を乗り移らせるための紙とインクと接着剤や綴じ糸の集合。思想や知識、物語は紙とインクに乗り移ってさ迷い歩いている。一冊一冊に幽霊が憑りついている。

幽霊たちは家の中を歩く。本棚から本棚へ、ベッドサイドへ、机の上へ、並び、重なり、崩れ、ときたま人の頭の中に棲み、出ていき、売り払われ、他のだれかの家に入り込み、本棚に並び、その一方であたらしい幽霊たちがみっちりとトラックに載せられて書店へ運ばれ、皆が集合して路上をそぞろ歩く。夜は墓場で運動会をする。捨てられて燃やされる。どこかにいってしまう。しかし、ある日唐突に、読んだという行為そのものの記憶が、人の頭の中に静かに現れることがある。かつて一冊の本を読んだという記憶、それは本の中にいた幽霊と読んだ人間の間に生まれた新しい幽霊だ。私から生まれた幽霊は私の頭の中をあいまいにして回り、自分の存在を本棚のなかにいるはずの存在に書き換え、私はいつまでも本棚の中を覗くことになる。すべての本棚には幽霊が詰まっている。

 

今週のお題「本棚の中身」

2020年に読んだもの

面白かったものも、そうでなかったものも、なんとも言えないものもあった。

 

『快適生活研究』金井美恵子

建築家Eさん、長手紙のアキコさんの2人のストレッサー具合があまりにも凄くて、『古都』が挟まれなかったら窒息死していたかもしれない。いやこのタイミングで挟まれて良かった。自覚のない自意識の垂れ流しと自分もこんなかもという恐怖で締め上げられるような気分だった。しかし進むにつれて登場人物たちがいい感じに2人への悪口を言ってくれるから嬉しくなってしまって、私は結局快不快だけで小説を発言小町を読むように読んでるんだという事実が辛いが……快適生活研究じゃん(快適とは外敵を排除した気持ちよい状態ってあとがきに書いてあった)。
面白く読んだと思うのだけど、あまりにもよゆう通信とアキコさんの手紙がきつすぎて、どれくらい面白いと思ったかよくわからない。とにかく金だな……という気持ちになったというのが正直なところ。人格って自分では認識し得ない恐ろしいものなのだと再確認させられてうんざり。『春にして君と別れ』以来こういう気持ちになった。いや〜これ平気で読める人は強いね。えらい。きっとお金をきちんと稼いでいて自分の人格や人間関係、生き方に自信のある人なんだろうなあ。

 

『大吸血時代』デイヴィッド・ソズノウスキ/金原瑞人

とにかく本を読んでると思いたい時期に読む本じゃなかったかもしれない。物語を楽しむというよりとにかく読んだ事実が欲しくて走ってしまったから。というか、正確にいうと走るような勢いで読み終えたことが、単に読んだ事実が欲しいからか、この話があんまり面白いと思えなかったからとにかく読み終えちゃおうという気持ちからきたものか分からない。
訳者後書きにあるように、吸血鬼ものは現代ではしゃぶり尽くされたジャンルで、吸血鬼×○○(任意のジャンル)というのはやり尽くされている。もはやジャンルの掛け合わせによるおかしみを楽しむのはかなり厳しくて、ジャンル内の描写の細かさで多少の興味をそそるくらいしかできないのではないかな。そういう意味でもこの小説はそんなに面白くはなかったような。もちろん永遠の命を持ってる吸血鬼の男と成長して死ぬのが前提の少女の間にある違いが可視化されるさまや、主人公が娘に振り回される様子は面白くはあるんだけど、それにしては年単位の話がさらさらーっと流されてて目立つトピックで各章のお話を立ててるだけって感じもする。この小説、ほんとあっという間に娘が育つんだよな…そしてその成長の感慨を特に感じさせるでもない。いかに娘の成長を理解していないかが物語の重要なキーワードではあるんだけど、それにしたってその理解してなさがもたらす話が軽すぎるというか……終盤に向かうにつれて何もかもがあっさりと解決するので肩透かし、というのが今感じてる気分に一番近いかも。とにかく、細かい描写から物語全体が最後に収束する地点まで、すべてのレベルにおいて「だから?」という感じになってしまうというのが正直なところ。
しかし翻訳物を読んでると時々出くわすんだけど、説明不足というか、主人公の情緒や物語の展開に全くついていけなくて???になってしまうことがあるな。この本でも時々そういうのがあって、それが自分が物語が描かれた背景や常識について無知だからか、あんま興味を持って読んでないから読み落としがあるのか、単に省略された文章の楽しみ方を知らないのか、その全部なのかよくわからない。そしてよくわからない部分があることに向き合う熱意も持てないままさらに急ぎ足で読み進めてしまった。
なんつーか属性と属性のというか、ジャンル同士の掛け合わせものは年単位で爆発的な数が生まれてものすごい勢いで古びていくので、この物語は2020年ではなく訳者後書きにある2006年に読むべきだったのかもしれない。私は2006年なら多分今みたいな気分であーはいはいギャップ萌えの亜種ねとは思わずに読めた気がする。

 

『大人にはわからない日本文学史高橋源一郎

なんか……なんか分かりにくい!多分そんな難しいこと書いてないんだけど、なんでこんなに頭にもやがかかったような感覚になるんだろう?ときどき、あーそれはわかります。そうですね、とか同意できるかはわからんが仰ることはわかります、となるのだがまたすぐにフワフワした話だなあ…?と思うようになってしまう。共同体という言葉の使い方がどうもよくわからなくて…要はその時代のその人が、そのときのメジャーな見解や前提として所与のものとして持っているものの見方、ということで良いんだよな?
しかし後書きで講義をもとに書かれた本だと呼んでこのモヤモヤ感は氷解した。講義がもとなのかー。

 

『なぜか、わたしたちは、口語の方がわかりやすいと考えています、そして、そのわかりやすいことばを、わかりにくい内面から発するのが人間である、とさえ思い込んでいます。だが、それは、誤解なのではないでしょうか。ほんとうは、わたしたちが、ふだん口にしていることばは、きわめて微妙で、あいまいで、わかりにくいものなのではないか。その事実を、書きことばである小説は、隠蔽してきたのではないか。』

 

まさにその通りで、柔らかい口語調で書かれたこの本は本当に本当に読みづらかった。話しているのは従来の形式ばったものとは違う文学史ということなのかな?とも思うが(語るだけでそこには形式が生まれるのではないかと思うが)、しかし何がどのように書かれているかを見極めようとする姿勢に対して使われる言葉があまりにもふわふわしていて捉えづらくストレスが溜まった。
講義を書籍化したものだと、こういう内容は良いのに読みづらくてたまらんというやつにたまに出くわす。話の間合いやニュアンスが取りこぼされてる感じがして、何か言いたいことがあるんだろうが……何なんだ?はっきり言ってくれ、と思ってしまう。

睡眠不足や運動不足で私の頭が鈍っている、また、そもそも頭が悪くて理解できてない、前提になる何か大切な情報を知らない、読解力不足で読み落としている、といった可能性もあるのでそうならすみません。

 

『バイエルの謎』安田寛

うーーん調子を崩していた時に読んだからか、どうも内容が追いづらかった。文章がちょっとだるいかな……。なんかいきなり海外に飛んで、行った先で何の成果もなく終わって帰国…みたいに調査が行き当たりばったりすぎたり、著者の論理展開によくわからないところがあった気がする。読み終わった側から記憶が蒸発してしまってはっきりしないけど。調査ってそんなもんなの?自分の説の検証のためにあちこち足を伸ばした挙句に若手修習生がネットで簡単に著者が求めていた楽譜を探し当ててたのは笑ってしまった。物悲しいとも言えるが……。基本的に著者の熱意を鑑賞するスタイルで読むのが良さそう。

 

黒死館殺人事件小栗虫太郎

読んだぞ!という気持ちでいっぱいになった。

 

『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』伊藤正一

面白え〜!!!実際のところ山賊ではないんやな。山で暮らす人たちが里の暮らしぶりと違いすぎるだけで。その辺の里と山の暮らしの違いが近代国家の制度とどう噛み合わなかったかという話を山林管理を任されてた話と併せてもっと読みたかったけど、その辺は触れられてなくて残念。黎明期の混乱と活力に溢れた様子ってどんな分野の話でも面白いよな。昔は山小屋にしか在庫がなくてこの本を買うには山に登る必要があったという噂もあるけど、今は電書で読めて助かる。

 

伊豆の踊り子川端康成

収録されてる「叙情歌」が気持ち悪すぎてびっくりしたけど(というか全体的に精神世界にいってて今読むにはしんどい)この気持ち悪さを通せるセンスの良さは感じる。

 

ハーメルンの笛吹き男』阿部謹也

幾度とない挫折の後についに読み終えた…。中世ヨーロッパについて何も知らない状態で読むのはなかなか厳しいけど、それでも面白く感じるところは少なくない。学説の紹介・検討も面白いけど庶民のありようを描いた箇所と、シュパヌートの研究について書かれた箇所が特に興味深い。市井の人への誠実さが感じられるというか…石牟礼道子が解説を書いていて、その文章もなかなかすごくてそこだけ読むのもいいかもしれない。

 

『〈新釈〉走れメロス森見登美彦

帯の“森見作品の見本市”という言葉がこの本の内容を正確に表している。もちろん悪いというのではなく、ああこの人の作品ってこうやって同じ名前の人が現れて色々な物語を重ねるのねと了解できるだけでも価値はあるし、この本一冊の中でも同じ京都の大学生たちが少しずつ登場する位置を変えながら姿を現し続けるので読むうちに複合的な視点が生まれる面白さがある。

 

『夜行』森見登美彦

想像したよりずっと不気味で怖い話だったが終盤で主人公の世界が反転すると恐怖感は一気に薄れて、爽やかに終わる。結局誰が失踪したのかはよくわからなかったが…勢いよく読んだことと、物語内の理屈をあまり丁寧に追う能力がないので理解できなかっただけかもしれない。まあでもその辺はあまり問題ではないんじゃないかな、絵を通して二つの世界を行き来しただけでどちらかで生きてる人はそれ以外ではいなくなってるというような話なんだろう。あまりそこを厳密に見てどうこういう理屈っぽいデスゲーム系の作品では明らかにないし。版画の説明が気持ち悪くてよかった。

 

『空のあらゆる鳥を』チャーリー・ジェーン・アンダーズ/市田 泉

ほどほどに面白く、ほどほどに現実に接続した舞台設定なのであれこれ設定に引っかかることなくガンガン読み進めることができる。まあギークの人たちの描写があるあるすぎひん?とかはあるけど。気持ちよく読書した気分に浸りたい時にはこういう小説もいい。しかしギークを集めて人類救済プロジェクトみたいなのやってるミリアム、めちゃくちゃピーターティールだな〜と思ったら海上国家まで建設しててまんまでめっちゃ笑っちゃった。他のキャラクターたちも分かりやすい個性があり、最終的にむかつくところが少なく気持ち良い設定になってるな…という印象。心の底から嫌なやつがいない。それを物足りないと取るか構成が上手いと取るかは読む人の好み次第かなという感じ。まあ全体的に思ったより単純な構図の話だな、という感じ。

 

『まどから おくりもの』五味太郎

うーん最高

 

『もう年はとれない』ダニエル・フリードマン

娯楽作として上々。第二次大戦を生き延びたユダヤ人のめちゃくちゃに口の悪いじいさんが、収容所で自分を散々にいたぶったナチのクソ野郎が金塊を持って今も逃げおおせていると聞き、気乗りしないもののヨボヨボの体とボケ始めた頭を抱えて孫と一緒にナチの金塊を探し始める…という大筋だけである程度楽しそうだが、実際楽しかった。最後はまあ、いかにもお話らしい気持ちの良い展開とそこそこほろ苦い締めで、ちょっと考えさせられるところもあるの含めて娯楽作として良い出来、という感じ。ストレートな文章もさくさく読めて心地よい。いかにも含蓄ありますって感じの言葉があちこちに挟まれるのも不快感はなく、年寄りが気持ちだけでも元気に暴れている話は楽しいねという気持ちになる。しかし主人公はいかにもクリントイーストウッドみてえだなと思ったら作中でも言われてて笑った。

 

『アララテのアプルビイ』マイケル・イネス/今本渉

久々に苦しい読書だった。図書館で一ページ目だけ見てそんな難しくなさそうだし軽く読むのに悪くなさそうなどと思ったのが間違いだった。二ページ目からもうわからない。なんでこんなに喧嘩腰というか、情緒不安定で不躾なジョークを飛ばしまくって妙な雰囲気になっているんだ?最後まで読んでもこのノリの答えは分からなかったが…そして猛烈な頻度で挟まれる聖書や詩篇、古典の引用の数々。引用元作品を読んでないからこの引用で示される空気がぜんぜんわからないのであった。まあ基本はミステリーなので、一応殺人事件が起こって犯人探しをするという筋立てに沿って話は進むため、引用のいちいちがわからなくても問題はない。

しかしミステリーとしてもこれはかなり読みづらい部類だと思う。まず物語に出てくる島の地図が描けないと状況についていけない時がある(まあこれはミステリーならみんなそうか)。主人公の思考も掴みづらい時があり、会話シーンで何が明らかになったのかよくわからないまま主人公がそうかわかったぞ…みたいな雰囲気になることも多い。まあこれもどんなミステリーでも起こり得るけど、この作品だともっと手前の部分でわからないというか…。探偵役の主人公と一緒に行動していて読み手に近い立ち位置にいるはずのダイアナもちょっと突飛な思考の持ち主のようで、今そんな話するか!?という物言いをすることがあり、全体を通して落ち着いて自分の心を預けられるキャラクターはいない。強いて言えば文学好きのマッジが比較的落ち着いた態度を貫いているが、この人は単に自分の好きな作品の話をし続ける役どころなのでお話の主要な筋に絡むわけでもないし。
しかしこういう苦しみと共に読んだ本の訳者あとがきで翻訳者も苦しんでいたことが語られているのを見つけた時の喜びは大きい。やっぱりこれって難解だったんだ!私がおかしいわけじゃないんだ!という喜び。江戸川乱歩もこれ雰囲気良かったけどキツかったっすわって言ってたんだな。『ねじの回転』以来の体験だった。